2009年6月30日火曜日

新しいデスク


職場の部屋とデスクを引っ越ししました。隣の部屋に移動するだけなのに、5時間もかかってしまい、今日の仕事はほとんど引っ越しだけで終了。

落ち着いて作業できるようになるまで、もう少し慣れが必要かも。

2009年6月25日木曜日

ウェブ時代に成果をあげるための心得

ウェブ時代において、質の高い仕事をし、大きな成果をあげようとする人のための心得:
  • 面白いからといってやみくもに読むのはやめなさい。ウェブでは、あなたが読むよりも速く情報が増殖していく
  • 人の目を介して編集された 質の高い文章を読むようにしなさい
  • 人生は短い。多くの意見を聞くのではなく、少数の、物事を深く考えよく洗練された人と議論すること

(1996年にチューリング賞を受賞した、Amir Pnueliの言葉だそうです)

2009年6月10日水曜日

炭鉱のカナリア

論文書きなどで論理を練る訓練をしていると、文章には、指す対象を「あいまい」にしたまま扱える「表現力の強さ」がある、と気付くようになりました。

論文ではあいまいな表現はすぐに潰しますが、ブログで書く文章では、対象を限定しすぎてしまわないように敢えて「あいまい」にしたり、意図的に、根拠などが「あいまい」な事柄をもとに「あいまい」なことを書いて、AでBになり、だからCという一直線のロジックだけではうまくとらえられないものを表現したりしています。 なので、曖昧かどうかの区別は、おそらく普通の人より随分とはっきりしていて、読み手がどの部分に「あいまいさ」を感じて、ひっかかるかは、把握しているつもりです。

それゆえ、はてブなどで、他の人にとっては「あいまい」な表現だと気づかずに、自分の世界の中だけしか意味の通じない文章を、敵意むき出しで投げかけられると悲しくなります。なぜなら、そのような言葉を投げかける人にとっては何も「あいまい」ではないから。文章の意味は「あいまい」だけれど、敵意だけは伝わる。防ぐのが難しい強力な武器。

この様子を「炭鉱のカナリア」とは、よく言ったものだと思う。
山形浩生氏のように、徹底的に「あいまい」な部分や、相手の至らなさを糾弾して、相手を打ち負かすというのも一つの手だとは思いますが、僕の場合は、そこでまともに「相手にする」ことで得られるものに期待できず、やられっぱなしになるばかりで疲れだけが溜まります。

これは、ある意味「相手に議論する価値を認めていない」失礼な態度なのですが、「文章が伝えるもの」を意識しないと良い循環が生まれない、「残念」に「残念」という禅問答の域を越えられない、僕が先のエントリで言葉にしたかったのは、まさにそういうことなんです。(これも「あいまい」な表現ですね)

「残念」に「残念」という禅問答

「何が残念なのですか?」

梅田氏
日本のWebは残念だ
dankogai氏
楠氏

残念という意見ばかりで僕も残念です。さて、「残念」からうまく抜け出すにはどうしたらよいでしょうか?

2009年6月8日月曜日

梅田望夫氏の功績

はてな界隈での騒動を眺めていると、彼は「大したことはしていない」という言説であったり、「がっかりだ」という趣旨の発言を非常に多く見かけます。

しかし、こと文章を書く力においては、そう批難する側の人たちの文章力は、彼の足もとにも及んでおらず、稚拙なものが目立つように思います。例えば、文章を印象付けるための工夫であったり、物事をわかりやすく伝える技術(指示語や議論の対象を明確にする配慮など)に欠けているため、厳しい言葉を投げかけるわりには、足元がしっかりしていないような印象を受けるのです。

そのような様子を見ていると、なんだかやるせない気持ちになります。はじめから「文体」を大事にしている人と、その機微には目もくれず、表面的な成果や発言の意味ばかりに気が向いてしまう人。そのように、メッセージの媒介である文体そのものを無視してしまうと、彼が世の中に示した一番大事な功績を見逃してしまうように思います。それは、Webの世界を分析したことでも、はてなに貢献していることでもないでしょう。

世の中で起こっていることを、文章で広く伝えるのに、その「書き方」がいかに大事であるか。

その「書き方」には「文体」のみにとどまらず、どのようなタイトルを付け、どのような読者を対象にしたメディア(書籍、ブログなど)を使うかも含まれると思います。彼の発言の趣旨を深く理解することにもある一定の面白さはありますが、彼の示した道を活用する術を見出し、実践していく方がはるかに楽しい世界が待っているように思います。

「Web進化論」が書かれた当時、「Web」や「Google」の話は、多くの人にとって「驚き」でした。そして、それが「驚き」であることに「驚いた」技術者の方も多かったのではないでしょうか。僕自身、研究者という仕事柄、何かの形(論文など)で文章になってはいるものの、書かれるべき場所や、文体がふさわしくなかったがために埋もれている「驚き」は多くあると感じています。

そう。彼のやり方が当てはめられる対象はなにも「Web」や「Google」の話に限らないのです。データベースシステムの研究が専門の僕なら、後で紹介しますが、一般の人向けの「データベースシステム入門」のような記事が書けるし、「世界史講義録」のような広く学校で教えられている事柄でも、敢えてWebで書くことで新たな価値が見出されます。

このような文章は知識だけあれば誰でも書ける類のものではありません。より広い知識と深い理解に裏打ちされた上で、伝えるべき情報を選択する必要があるし、ただ書くだけではなく、読者に合わせて文章を練る必要があります。「知見」を「いかに書くか」の大切さを、これほどまでに見せつけてくれた人は、梅田氏以外にはなかなかすぐには思いつきません。また、その「書く力」が一朝一夕で身についたものではないことを伝え聞いています。彼は「昔からよく文章を書いていた」と。

そして、彼と張り合うなら、「はてな」などを含む「Web」に対する見解を述べるだけではなく、その「Web」を使って自分自身が「何を」「どのように」伝えられるのかで競って欲しいと思うのです。

関連
  • Leo's Chronicle:データベースシステム入門:「データベースは体育会系図書館?」(専門用語はなるべく使ないように配慮し、使った場合、それがどういうものかイメージできるように説明してあります)
  • 「世界史講義録」(高校での世界史の講義の内容を文章におこしたものですが、クラスルームで聞くしかできないのと、Web上にあるのとでは、世の中に与える影響が断然違います。学生にとっては「時間」を飛び越えて先読み、復習できる便利さがあるし、他の先生にとっても自身の授業に活かすことで、学生に良い授業を受ける機会が生まれ、とても良い循環が生まれます。)

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