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2009年12月6日日曜日

理系のためのサバイバル英語入門

ふと本棚を眺めていると、「理系のためのサバイバル英語入門―勝ち抜くための科学英語上達法 (ブルーバックス)」という本を発見。東京大学の1~2年生向けに教養学部で開かれていたゼミ「理系のためのサバイバル英語入門」の内容を本にしたものです。もう10年以上前に書かれたものですが、まったく色褪せていないことに驚くばかり。

一番驚いたのが、昔読んだときと今読んだときとで印象がまったく異なっていること。この本の内容を十分に咀嚼するには、読む側にもレベルアップが必要なようです。

1.まず冒頭の科学用語の英語表現をどれだけ知っているかのテストで、高校や大学で学ぶ、文学・哲学・社会学中心の英語が、理系の学問では役に立たないことに気付きます。(大学1年生の頃、初めてこの本を読んだ僕はこのレベルでした。英語そのものを教える人ってどうしてもいわゆる理系分野を知らない人になることが多いので…)

2.自然な英語を書くとはどういうことか(英語で論文を書くようになった今は、ここで説明されていることがよくわかる)

3.英語でコミュニケーションをとること。(学会などのプレゼンテーションで英語のトークをするようになったので、うなずけることがたくさん)

辞書の使い方、簡潔な英語の書き方なども参考になりますが、巻末の永久保存版「論文を書くための論文」もお勧め。ここには、科学の分野で認めてもらうためには、メディアで名声を得るのではなく、「良い論文」を書かねばならないと断言されています。科学の世界ってそういうものなので、テレビで紹介されている部分だけでは決してわからない。

本書のいたるところに、研究の面白みや、独創的な研究をしていくためのエッセンスがちりばめられています。タイトルを「英語入門」とするには惜しい内容で、「科学への入門」「研究者入門」と呼ぶ方がふさわしいです。そこに気付かずに、理系英語の入門書としてだけとらえると相当にもったいない。けれども、読む側としても「科学」や「研究者」の世界に一歩足を踏み入れてないと、大学入学当初の僕のように、この本に書かれた大切なメッセージを受け取り損ねてしまいます。

これは「科学」の世界へ入っていくための「英語」入門書です。

2009年9月10日木曜日

研究者の仕事術 - 「いかに働き、いかに生きるか」

「いかに働き、いかに生きるか」

やるべきことが見えてくる研究者の仕事術―プロフェッショナル根性論

最初は「研究者」のための本かと思って購入したのですが、そんなことはありませんでした。会社や組織に縛られて不自由な思いをしていたとしても、自分の人生にとって大切なことはしっかりものにするためのエッセンスが見事に凝縮されています。
研究者として仕事をすべき10の原則
「興味を持てる得意分野を発見する」
「最初は自分で学ぶ」
「師匠を持つ」
「現場で恥をかく」
「失敗を恐れつつも、果敢に挑戦する」
「自分の世界で一番になり成功体験を得る」
「研究者としての自信をつける」
「井の中の蛙であったことに気付き、打ちのめされる」
「すべてを知ることはできないことを理解する」
「それでも、自分の新しい見識を常に世に問うていく」
一見当たり前のようでも、自らが紆余曲折を経てこの原則に辿りつくことの大切さは、研究者として共感できるところが多いです。この本のタイトルが、「研究者のための仕事術」ではなく「研究者の仕事術」となっているように、研究者の仕事の仕方を垣間見ることで、研究者以外の人にもぜひ知ってほしい考え方が詰まっています。

ネットでアメリカの有名大学の講義が視聴できるようになった今、なぜ大学や、PhDが必要なのか?こんな素朴な疑問への答えもここにあります。スキルを身につけるための設備を提供するインフラという意味もありますが、もっと大切なことは「人間的成長」の機会を与える場としての大学の役割です。サーチエンジンの力で目的の知識に辿りつくためのパスは短くなったとしても、この本にあるような、自身の「人間的成長」は、段階を踏んでひとつひとつ登っていかなければなりません。

山積みになるタスク、環境の変化に対する恐れをどう克服するか。自己表現のためのプレゼンテーション力や英語力とは何か。このエントリも、本書のブログをいかに書くかという意見に触発されて書いています。

恐らく島岡先生自身の、Cell, Nature, ScienceにPI(Principal Investigator:主任研究者)としてFirst Authorの論文を一本、指導者としてLast Authorで一本という「成功体験」があるからこそ書ける本ですが、その業績に奢ることなく、不安と闘いながらも「一番」を目指して常に勝負し続けている姿がうかがえます。僕自身も、勝負に出ようとしていたり、壁にぶちあたったり、といろいろあるのですが、この本のメッセージがとても励みになっていて、良いタイミングで読めたことに感謝しています。

最初178ページで2,940円という設定に驚きましたが、内容をみると至極納得。このテーマの自己啓発本としては、本当に大事なことが集約されている一冊です。

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2009年7月30日木曜日

未来を予測する一番よい方法は、自ら未来を創ることだ

石井先生の基調講演で紹介されていた言葉:
The best way to predict the future is to invent it. - Alan Kay
(未来を予測する一番よい方法は、自ら未来を創ることだ)
Alan Kayは、今や常識となったオブジェクト指向プログラミング(1960-1970年代ごろ)や、ウィンドウを重ねるGUI、ノートブック型のコンピュータ(Dynabook, 1968)など、現在のパソコンの基となるアイデアを考案してきました。それらの功績から2003年にはACM Turing賞(いわば、Computer Scienceのノーベル賞)を受賞しています。

彼がこれらのアイデアを考案して40年後の今、僕の目の前にはウィンドウがあり、オブジェクト指向の考え方を使ってプログラムを書いています。彼の言葉は、まことにむべなるかなと思わざるをえません。

2009年5月25日月曜日

研究者はどれくらい論文を読むのか?


自宅にあった、ここ5年間に読んだ論文を集めたらこれくらいになりました。(ちなみに全部両面印刷。ラボにも、もう1山分?くらいあります)

今や論文のPDFファイルはネットで簡単に入手できる時代で(ただし英語に限る)、画面の大きなディスプレイなら、そのまま読んでも特に不自由がありません。(なぜ印刷するかというと、電車の中やカフェで読んだり、お風呂で読んでも安心だったり(え?)、読み終わったら子どもに落書きさせたり(ええ?)するためです)。とにもかくにも、印刷された論文は家に置いておくとスペースをとってしまうので、1ページ目だけ読んだ記録用に残し、後は廃棄するために、子どもがホチキスの針をはがしてくれました。いい子。

ちなみに、ホチキスの針をはがすときには、「はりトル」がとてもとてもとても便利です。紹介していただいたkunishi先生に感謝。

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2009年5月15日金曜日

一人で悩んでいませんか?

先日、痛ましい事件があったばかりですが、学生生活で困ったことがあった場合、一人で悩むだけではなく「勇気を振り絞って」相談してください。

例えば東京大学では、そのために学生相談所が設けられています。指導教員にまともに取り合ってもらえないことが原因なら、ハラスメント相談所などもあります。

特に修士・博士課程では、人間関係も狭くなりがちで、研究がうまくいくかどうか、それに伴う将来への不安など、極度のストレスにさらされます。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」とはよく言ったもので、一度そのような辛い経験を経たはず人でも、十分な理解者となりえないことはよくありますし、家庭や人間関係など、置かれている立場が違うと、似たような問題でも、悩みの様相は変わってきます。

基本的に、大学は自らの意思で勉強する人をサポートする場所です。勉強の邪魔もしない代わりに、自分からアクションを起こさないと何もしてくれない場所、と考えた方が良いと思います。その例を挙げると、何もしなくても授業を受けられた高校までとは違い、大学では自ら履修届を提出する必要があり、自分自身で物事を判断する責任が求められています。日本に限らず、アメリカの大学でも状況は同じで、
困ったことがあったらメールでも、その辺で会ったときでもとにかく教授をとっつかまえて相談する
これが一番大切です。大切なことなのでもう一回言います。何か研究のことで困ったことがあったら、教授に相談する癖をつけてください。アメリカの大学院は、こちらからサインを出さない限り、基本的には本当に何もしてくれないし、ほったらかされる*1ので、とにかくアクションを起こすことをおすすめします。アクションさえ起こせば、たいがいのことはなんとかなります。

*1:何か困ったら助けてと言わずに放置して問題が悪化した場合、問題解決能力が無いとみなされる ラボについて - Ockham’s Razor for Engineers
けれど、それぞれの事情を把握しているわけではないし、誰かに相談することで問題が解決するなどとはとても言えません。それでも、相談することで悩みを理解してもらえたり、あるいはもっとふさわしい相談相手に出会える可能性がある。ただその一点のみにおいて大事なメッセージだと思えるので、もう一度言います。

 「一人で悩んでいませんか?」


(追記)

相談所に限らず、家族、友人、恋人、教師、先輩、後輩。周りに相談相手が見つからなければネットにメッセージを投げてみるのも手だと思います。匿名で日記を書いてみる、日本がだめなら海外の人に聞いてみる。百人に叩かれても、たった一つのコメントで救われることもあります。

もう一つ。水村さんのエッセイ「日本語で読むということ」の冒頭にあったエピソードを紹介します。

Dan Gottliebという心理学者がいます。彼は事故で首の骨が折れ、胸より下が麻痺状態になってしまいました。今まで何不自由なく歩いていたものが、一瞬で、一生一人で手洗いにもいけない体になってしまったのです。家族、友人が去り、集中治療室で首を固定され夜一人横たわる彼の目に映るものは、集中治療室の冷たい天井の光のみ。仰向けに寝ているうちに、彼の心の内には自殺願望が膨れ上がってきました。

「もう死んだ方がましだ……」

と思ったそのとき、横から、女の人が話かけてきました。

「先生は心理学のお医者さまでしょう? 死んだ方がましだって、そう思ったりすることって、よくあるんでしょうか。」

その女の人は病院の看護師でした。彼の症状などはおかまいなしにつらつらと悩みを話す彼女。そんな彼女が去ったあと、彼は心理学者としての自信を取り戻し「こんなサマになっても生きていける」と思ったそうです。やがて彼は復帰し、ラジオで人気の悩み相談の番組を持つようにまでなりました。

なんとか彼を励まそうとする家族や友人の善意あふれる言葉は、ちっとも彼の心には届かなかったのに、どう考えても自分より不幸な相手に向かって、心理学者ならきっとなんとかしてくれると、つらつらと悩みを打ち明ける彼女。そんな善意のかけらもない彼女の身勝手さがかえって彼を救った、という話です。


自分を救ってくれるのは、なにも、親身に相談を聞いてくれる人だけではないという、なんとも不思議な話ですよね。

(このエピソードは僕が短く直したものですが、水村さんの文章の方がはるかに情景あふれるものとなっているので、大変申し訳ないです)

2009年4月2日木曜日

学生を成功に導くアドバイス - Ullman先生からのアドバイス

(この文章は、Ullman先生に許可をいただいて翻訳し掲載しているものです。記事の掲載を快く承諾してくださったUllman先生に感謝)

学生を成功に導くアドバイス
~学生にアドバイスをする教師へのアドバイス(そして、教師が学生から学べること)

Jeffrey D. Ullman



博士課程には、二人として同じ学生はいない。そして、教師がすべきことも個々の学生に応じて変わる。自分のキャリアを振り返ってみて、うまくいったいくつかの方法と、よく使われているけれど実際には学生のためにならないやり方というのがよくわかるようになった。まず初めに述べておくと、教師のゴールとはどうやったら学生が自分自身の力で考え、新しいアイデアを組み立て、問題を解ける人になれるかを教えることだ。


2003年のJeff Ullmanの退官式にて。参加した学生と同僚たち。
(訳者注: 中央左がUllman先生。左端にはJim Gray、中央右にSergey Brinなども)

教師であるあなたは、十代を終えたばかりの学生を受け持って、その分野で最も経験のある誰もができなかった何かをできることを、学生に実感させなければならない。そして、それがただの一回だけでなく、プロとしてそれを生涯続けられるようにしないとだめだ。率直に言って、私が学位を取ろうとしていたときには、博士論文に何を書いていいかわからなかったし、もしわかっていたら、大学院には行っていなかったに違いない。

やってはいけないこと

私は学生で、その後、大学の教員になった。私がいた電気工学科では、学位論文を書く方法は、たくさんの論文を読むことだという考えが定着していた。「論文の最後の章を見ろ。そこには常にopen problem (未解決問題)のリストがある。その中から1つを選んで研究し、ほんの少し発展させられるまで続けるんだ。そしてその小さな成果について論文を書き、最後に必ずopen problemの章を入れるのを忘れるな。そこに、君ができなかったことを全部書くんだ」という具合にだ。

不幸にも、この論文の書き方は今でもあちこちで行われており、凡庸な研究を助長している。そして、研究というものが他の誰かの仕事に小さな成果を付け加えることだという幻想を生んでしまっている。さらに悪いことに、そうしているうちに研究が「解くべき問題」ではなく、「解ける問題」によって左右されるようになる。論文を書き、論文を採録するのも、そのような小さな成果を付け加えるような論文を書く人たちになるが、それでは論文が物書きの世界を超えて世の中に与える影響というのは大したものにはならない。

初期の形態:理論中心の学位論文

コンピュータ科学がまだアカデミックの世界に出はじめの数年は、多くの論文が「理論的」であった。それというのも、論文による貢献がほとんど「紙と鉛筆」によるものだったからだ。定理やアルゴリズムとかそういうもので、ソフトウェアではなかった。そのような研究は、机上の空論に終わるかもしれないという弱みがあったが、理論的な論文が実際に役に立つことは十分ありえる。例を挙げると、私がプリンストン大に入る前、ベル研でRavi Sethiのもとで夏のインターンをしていた時のことだ。Ken ThmpsonとDennis RitchesがMultics(GE635計算機のためのOS)のプロジェクトに参加していた。この猛獣のような計算機は、初めて1つ以上計算に使えるレジスタを持ったもので、Raviと私に与えられた課題は、コードをコンパイルし、レジスタを最大限活用する技術の開発だった。Raviの論文は、数値演算の式をコンパイルし、与えられた数のレジスタを使って最小限のステップで計算するアルゴリズムについてだった。これは実際に数年後、PDP-11用のC言語のコンパイラに組み込まれた。

Raviの論文は「理論的」であり、私も彼も一切コードを書かなかったが、この経験は、私にどんな学位論文でも実際に開発すべきものなのだと確信させる経緯を物語っている。私たちの研究は、どこかの論文に書かれたopen problemに基づいたものではなかったし、むしろ「いくつかのレジスタを使って式をコンパイルする」という要求に応えたものだった。私たちの大きなアドバンテージは、分野を開拓してく力強さを持った環境に身を置いていたことだった。もし、ベル研にいなかったら、この問題に取り組む価値があると気付くことができたかどうかも疑わしい。我々が用いたノードへの順序づけの方法を先に論文にしていたAndrey Ershovでさえ、その研究を1レジスタのマシンでコンパイルする手法としてしか見ていなかったし、論文中で複数レジスタを持つマシンでの可能性などは示唆していなかった。

理想的なPh.D.の学生

一番理想的なシナリオは、学生が私にどんな論文を書きたいかを話して自分自身で研究を行い、かつ、学生がその論文のテーマを選んだ理由が、実際の「顧客」のニーズに基づいている場合だ。Sergey Brin (訳注:後にLarry PageとともにGoogleを起業した)は、この理想に最も近かった。というのも、BrinとLarry Pageの2人は私の助けを一切借りずとも、良い検索エンジンの必要性を認識していたし、その目標にどうやって到達できるかもスタンフォード在学中に見据えていた。ただ1つ欠けていたのは、彼らの2人とも博士の学位をとらなかったことだ。とはいえ、のちにより大きなものを手にするのだが。

さらに似たような例として、George Luekerがいる。彼はある日、私のもとに論文のテーマが何かないかと尋ねに来た。Georgeは、その時は私の学生ではなかったが、プリンストン大で応用数学のプログラムに所属していた。私はその日の朝、chordalグラフについて読んでいて、chordalityを検出するアルゴリズムはどうかと彼に提案した。1年後、彼は再びやってきて、pd-treeについて書いた彼の論文を見せてくれた。そのデータ構造は、chordalityの検査の他に、今でもいくつかの重要なアプリケーションがあるものである。他にも何人もの学生が、渋る私をけしかけて、新しい分野を学ぶ方向に引きずりこんでいった。その後、逆に私が彼らの論文テーマ選びに関わることもあったのだが…。Matt Hechtは、私にデータフロー解析について学ばさせてくれたし、Allen Van Gelderのおかげで、ロジックプログラミングを学ぶことになった。

なぜ「誰が」論文のテーマを提案するかが重要なのか? 私たち教師は、若い科学者が、自分自身の力で取り組む価値があるものを見つけられるように導こうとしている。その過程では、いくつかの判断が必要だ。何がやる価値があるのか?何が実現可能か?そして、どうやってそれをやるか?だ。教師はこれらの判断を助けてあげることもできるが、自分の力で自然にこの域に到達する学生に出会うのは楽しいものだ。それに、年をとるにつれ私が忘れないように心掛けていることは、若い人は、すでに自身の流儀に落ち着いてしまった我々にはできないようなものの見方ができる、ということだ。若い人の技術的な判断を信用するのも悪い戦略ではない。

学生は何を必要としているか

「学生を成功に導くには、多くのサービスを与える準備ができている必要がある。」

「『顧客』を見つけてあげること」。この記事の初めでも述べたが、分野の最先端の問題に触れる必要があり、その問題が実際の「顧客」に必要とされていることが大事だ。ときには産業のなかで「顧客」を見つけることもできる。私とRavi Sethiがベル研でそうであったように。そのために夏のインターンシップはとてもよい機会になりうる。しかし、教師は学生に強い研究グループでインターンをするように薦めるべきだ。強い、というのは、そこでの研究のゴールが、既存の手法に単にひねりを加える以上のことをしている、という意味でだ。

論文が理論的であれ実装による解決であれ、研究がうまくいったときに、学生がその研究の成果を実際に誰が使うことになるのか理解できるようにする必要がある。そしてその答えが、「誰かが僕の書いた論文を読んで、論文中のopen problemを使って自分の学位論文を仕上げるさ」となるようではいけない。特に理論的な論文に関わる場合は、研究が活きる連鎖が生まれるまでの道のりは長いかもしれない。アイデアがアイデアを生んで、研究成果が行きわたる状態に至るまでは。もし、学生にそんな連鎖や研究成果が生かされる道が本当にあるかどうかを無視させてしまうようでは、教師は学生へのサービスを損ねていると言える。

「走り出す前に歩み出すこと」。問題に触れさせるだけでは十分ではない。部分的に、完全にではなくてもよいが、Ph.D.の学生が、自分自身でオリジナルなことをできると自信を持つ必要がある。以下に、実際にうまくいったアイデアをいくつか紹介する。
  • 研究を始めたばかりの学生に、研究の在り方を掴む練習をしてもらうには、あなた自身が小さな問題を通して考え、博士課程の学生にその問題に取り組むように指示するとよい。あなたの頭の中で既に道筋が付けられているので、学生をあるべき方向に誘導するような質問をぶつけるのは簡単で、学生が自ら解法に至るまでそれを続けさせることができる。このような小さな体験だけでも、たいてい、学生が自分で研究に取り組めるようなるのには十分だ。
  • 学生がなるべく早く、論文を読んでいるだけの状態から抜け出し、自分自身のアイデアを生み出せるようにすること。確かに、たくさん論文を読まないと分野の知識を得ることはできないのだが、ある時点から先は、読めば読むほど、考え方がその分野の大勢一般の考え方に近づいてしまい、「枠を超えた」思考というのが難しくなってしまう。もし、学生が見込みのあるアイデアを生み出したなら、もちろん、注意深く既存の文献を探さなければならない。十分な例を通して見た経験から、学生のアイデアが既存の研究の枠内に完全に納まってしまうのは稀であると信じている。(悲しいことに、そういう場合もあるにはあるのだが)。
  • 同僚のHector Garcia-Molinaはよく学生に、理論的に最適な解法を探すことから始めるのではなく、単純で、簡単に実装できる解法で90%のゴールになるものを探すようにと指導している。最適性はあとで研究して、学位論文の重要な部分を形作ることができるからだ。
  • もう一人の同僚のJohn Mitchellは、学生が自分で新しいことができると信じる、というハードルを乗り越えたあとでさえ、学位論文の規模の大きさには委縮してしまうことを指摘してくれた。彼は、とりあえず学生に論文を1つ書くことに集中させている(より良いのは、論文誌ではなく、人に会う機会が生まれる学会のための論文を書くことだ)。学生がいくつかの論文を書いた後、それを元に学位論文を書けば、怖さが軽減する。

「アイデアを表現すること」。教師は、学生が明瞭な文章を書けるように指導しなくてはならない。良いアイデアを学生がうまく伝えることができていなければ、細かい点まで指導する。アドバイザーは論文をかなり丁寧に読見込んで、一文ずつチェックするのが、学生が最初に論文を書くときには大事だ。よくあることだが、早いうちに見つけなくてはいけないのは、簡単な部分については細かいところまで書きこんでいるが、難しい部分になると、たとえば、核となる定理の証明や複雑なアルゴリズムの細部で、非常にあいまいな記述になったり、おおざっぱすぎになったりする場合だ。教師は、難しい部分を判断し、難しい部分がしっかりと書かれるようにしないといけない。(*)

(*) 最初のうちは細かいことのように聞こえるだろうが、論文を非常にわかりやすくする方法は、何も指していない"this"という言葉を学生の論文から探すことだ。多くの学生が(学生以外の人も)"this"を一つの名詞ではなく、ある概念全体を指すのに使ってしまう。例えば、「If you turn the sproggle left, it will jam, and the glorp will not be able to move. This is why we foo the bar.(sproggleを左にまわすと詰まって、glorpが動けなくなる。だからfooしてbarなんだ)」 という文。ここで、書き手の方は、sproggleとglorpが何かわかっているので、"This is why(だから)」で示される「fooしてbar」と言える理由が、glorpは動かないからとか、sproggleが詰まっているからなどと理解できる。けれど、まだglorpやsproggleがどう動くかまだよくわからない読者の立場になって、パラグラフを注意深く書くことが大切だ。今では何も指していない”this”を見つけるのはそう難しいことではない。このようなthisはほとんど文頭にあるので、grep(訳注: 文字列検索プログラム)を使って"This"を検索すればよいだけだ。

「怖がる要因」。もう一つ教師に共通する仕事は、学生が、充実感を持ったまま、何も恥じることなく失敗できるようにすることだ。すべての学生が失敗することへの打たれ強さを持っているわけではないし、多くの学生が、まだうまくいくかよくわからないことを試すのが悪いことだと思ってしまっている。大抵の場合、学生の考える「問題」のモデルは、「宿題」から来ている。つまり、答えがわかっているものだ。そして「今週は何もできませんでした」と報告することを恥じている。たとえそれが、努力不足によるものではなかっとしてもだ。教師であるあなたも、学生が多くの時間をプログラムを書くこと、しかも、人の書いたプログラムを入力として受け取り、その中に含まれるすべてのバグを取り除くようなことに費やしてほしくはないだろう。(実際、私の同僚の学生は、一度師匠にそんなことをやれと言われていたが)。でも、学生に挑戦的でリスクもあるような仕事を薦めるのは大丈夫だ。例えば、他の誰よりもバグをたくさん見つけなさい、というような。その場合、教師の極めて大事な役割は、学生に費やす時間と努力、つまりリスクを承知の上で研究させ、何も良い成果が出なかったときのケアをすることだ。

「集団療法」。よく使われる方法で、学生を励ましつつ研究に邁進させるのに良いのは、フリーのランチだ。Ph.D.の学生のためだけでなく、学部生を研究の輪の中に引きつけるのにも使える。過去15年間、幸いにも私は、スタンフォード大の「データベースグループ(現在のInfolab)」の中にいることができた。メンバーには、Gio Wiederhold、Hector Garcia-Molina、Jennifer Widom、学生、スタッフ、そして外から来ている研究者もいた。金曜日に開かれる定期的なランチでは、学生は自分の研究についてインフォーマルな話をし、良い感じの議論がフロアでなされるのが通常だった。学生が次の学会の発表練習をしても良いし、同僚の学生から細かい点まで指摘を受けることもできる。ランチのもう一つの重要な役割が、つながりにある。グループ行事を行う社会的な集まりのなかでつながりが強くなり、定期的にある出張レポートが、外の世界について学ぶ原動力になる。

新しい形態:プロジェクトに基づいた学位論文

この段階に至るまでは長い年月がかかったが、今やたくさんのソフトウェアプロジェクトが、アカデミックの世界で日常的に行われるようになっている。それでも、純粋に「紙と鉛筆」で書かれた学位論文というのも常にあるものだが、もっと生産的な方法が、Ph.D.コースに入りたての学生をソフトウェアプロジェクトに参加させることだ。たいてい、学生は「何かをしながら学ぶ」経験ができ、ソフトウェア開発に貢献し、それと同時にプロジェクトで研究された新しい概念を学んでいく。年輩の学生は、後輩の学生を助けたり、教える経験を積む機会にも恵まれる。

この研究の形体を効率的に使った一番良い例は、同僚のJennifer Widomによるものだ。たくさんのイノベーションを生んだプロジェクト(半構造データ、ストリームデータベース、そして今は、不確実データのデータベース)の中で、Jenniferは次に挙げるルーチンを完璧にこなした:

1. 研究の大まかなゴールを定め、一緒に取り組む博士課程の学生のチームを作る

2. 相当の期間の時間(6~12か月くらい)を、問題に潜む基礎的な理論やモデルの構築に費やす。(Jenniferが言うには、学生を研究計画とモデルづくりの段階で巻きこむのが、彼女のやり方の際立った特徴だとか)

3. それから実装のためのプロジェクトを始める。細かい点を学生に取り組んでもらう。個々の開発プロジェクトのゴールは、ちゃんと動いて配布してもいいようなプロトタイプを作ることで、商用化できるくらい完璧なものを作ることではない。

4. 学生に、幅広い問題分野から集中して取り組むべき難しい問題を、自分なりに切り出させる。学生は自分のアイデアを組み立てていき、それが学位論文の核となり、さらに、大きなシステムの一部として自分のアイデアを組み込むことで、そのアイデアをの価値を検証できるようになる。

悲しいことに、多くの研究ファンド(たとえばDARPAなど)が、最近かなり「ミッション重視」になってきている。プロジェクトの実装の一部でPh.D.の学生をサポートできるかもしれないが、それではプロジェクトの枠を超えて自分独自の仕事をする余地がない。例えば、私はそれぞれ別の情報源から同じことを聞いたのだが、EUは「研究」を広くサポートするが、その対象はプロジェクトの派生物になるものに厳密に縛られ、プロジェクト内で上のStep 4と同じことはできない。国から博士課程の学生の予算が出るような場合あまり障害はないが、プロジェクト予算からのサポートに学生が依存してしまうような国では、第一線で活躍できる研究者を育てるのは難しくなる。

学生と起業

一風変わった決断がいるのは、教師が、博士課程の間に起業を志す学生とどうやって向き合うかだ。私の意見に賛成する人はあまりいないが、私は少なくとも、起業のアイデアがとんでもないものでなければ、学生は思い切って起業すべきだと考えている。私の考えでは、Ph.D.を取ることや、研究の世界に入ることには確かに価値があるが、しかし、それは考え得る最大の価値ではない。起業は学位論文よりより大きなインパクトを我々の生活に及ぼし得る。それに、起業してビジネスを成功させる機会をここで逃してしまえば、より多くの機会を逃してしまうことになる。もし起業がうまくいかなくても(たいていの場合そうだが)、学生にとっては数年を失うだけで、やろうと思えば博士課程を再開することもできる。

Sergey Brinは私にPh.D.プログラムをやめるかどうか相談することなくGoogleを立ち上げたが、もし聞かれていたとしたら、起業するように言っていただろう。別の学生、Anand Rajaramanは起業に関して私にアドバイスを求めてきた。彼は、あと半年で卒業というところだったが、私は、大学を出てJungleeの創始者になるように彼に言った。そのベンチャーは大成功し、数年後、彼はスタンフォードに戻ってきて、まったく新しい論文のテーマに取りかかった。それは、彼がJungleeで学んだことの一部を集約したものであり、そして彼はDr. Rajaramanとなった。

起業について考えるのにシリコンバレーにいる必要はない。良いアイデアはどこでも生み出すことができるし、良い先生なら、必要に応じて、学生の研究がベンチャー企業の土台になるかも、という選択肢を提示してくれるだろう。私は、別の大学のとある学生から来たメールをよく覚えている。「学位論文になってかつ役に立つ研究というのはあり得ますか?」と。私が肯定的に返事をしたところ、「うちの先生にそのことを説明してくれませんか」と頼まれたのだ。その先生は結局、学生に良いサービスを提供できていなかったと言える。その指導方針がごく一般的なものであったにも関わらずだ。この文章を手直ししている最中でさえ、私は、技術的な研究が、たとえ商用化できなかったとしても、やる価値があると認められるべきだという考えに行きついた。

後記

私のキャリアでの様々な仕事のうち、私が最も誇りに思うのは、53人のPh.D.コースの学生と、それに続く弟子たちだ。(http://infolab.stanford.edu/~ullman/pub/jdutree.txt と、この記事の最初の写真を参照。) その多くが、私には絶対にできなかったようなことを、驚くぐらいよくやってくれた。そして、それぞれが独自の才能を分野で発揮し、眺めているだけでもよい勉強になった。彼らの成功に私が貢献したと思いたいものだが、私がしてあげたと言えるたった1つのことは、彼らが自らの力で才能を開花できる道を遮らないようにした、ということだけだ。

著者
Jeffrey D. Ullman (ullman@cs.stanford.edu) is the Stanford W. Ascherman Professor of Computer Science (Emeritus) at Stanford University.


2009年4月1日水曜日

論文の先にあるもの

研究が論文を書いて終わりでないなら、こんな心配をする必要はないはず。
自明なことを述べた論文は掲載されない(中略)「原理が複雑であまり便利でないシステム」の方が論文として 発表されやすくなってしまう
論文査読のシステムでは、確かに、査読者のめぐりあわせ次第で、重要な技術でも適切に評価されないことがある。けれど、もし本当に便利でないのならば、将来的に引用されることもなく、実用化もされず、論文の海の中に埋没するだけではないだろうか。

本当に便利なものだけを学会・論文誌に載せたい心情は理解できるが、実際、技術の本当の便利さがわかるのは、研究の結果が世に出てからのこと。つまり、便利さや将来的な世の中へのインパクトというのは、未来に起こる話であって、研究成果を発表する時点でそれを実証せよというはなんとも酷なように感じる。
(査読で便利なシステムを取り上げられない)問題を解決するのは簡単で、 論文の発表とその評価を分けてしまえば良い。 論文を書いたらすぐそれをWebにアップし、読者に評価をまかせてしまうわけである。
Google Scholarで調べられるような論文の引用数や、ビジネスなどへの実用化という観点からみると、現行の査読システムでも、既にこの機能はうまく働いているように思う。最近では論文のダウンロード数なんて指標も使える。けれど、査読なしでオープン評価の方式を採った場合、著者自身が既にある程度注目を集めている人でないと、Webに公開しただけで読んでもらえたり、重要さを理解してもらうのは相当難しい。これでは、Webで目立つ人の論文ばかりが取り上げられ、「本当に便利な研究」を拾い上げる方向にはつながりそうもない。

増井さんのエントリには、おそらく無意識のうちに、研究のゴールを「論文を学会・論文誌で発表すること」に据えている様子が見え隠れする。(増井さんは、本棚.orgなどのサービスを動かしていたりと、論文を書いた後の実用性までちゃんと意識していることはよくわかるのだけれど)

世の中への貢献を意識せず、「論文を書けば、誰かが読んでくれるだろう」という姿勢でいることは、研究者、特に、これから研究の道を志す博士課程の学生にとって、とても不幸なことに思う。世の中との接点をないがしろにしたまま研究をしてるいると、いつしか研究に注ぎ込んだ時間の意味を見失い、もし論文が採録されなければ、自分の仕事への自信、価値判断が崩壊しかねない。

研究の「便利さ」が見出されるのは、近い未来かもしれないし、もっと長くて何十年後かもしれない。それでも、自分の研究の成果が、どのように世の中にインパクトを与えることができるかを考え、そしてそれを一番理解してくれる、あるいは実用化につなげてくれる環境に身を置くことが、研究へのモチベーションの維持するためにも、さらには研究を埋没させないために最も大事なことだと思う。

もちろん、研究成果を論文にすることにはとても価値があるのだけれど、それが考えられる「最高」の価値ではないことも知っておくべき。論文を発表するより、実際に起業して研究成果をサービスにして世に送り出す方が、世の中にはるかに大きなインパクトを与える可能性があるから。

(研究に関するこの話題については、実例を含めたよい話があるので、後日紹介します。追記:この記事です Leo's Chronicle: Ullman先生からのアドバイス)

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しかし、現実問題として、研究の実用化には時間がかかるものなので、コミュニティによって質が保たれた論文を発表する学会や論文誌というのは、世間での注目度を高め、研究者にとっても、世の中にインパクトを与えるために非常に効率の良いステージとなっていることはお忘れなく。良い研究があぶれてしまうのは、どんどん広がっていく研究分野の割に、質が維持されたコミュニティの絶対数が足りないだけなのかもしれません。

2009年3月10日火曜日

イラストで知る研究の世界とその醍醐味

研究の世界の雰囲気や、その面白さがどこにあるかご存じな方はとても少ないことと思います。

例えば大学4年で卒業し就職してしまうと(法学部や経済学部に多い)全くといっていいほど研究の世界を知らないまま社会に出ることになります。日本では、報道などのメディアに就職する方も学部卒ということが多いため、テレビ・新聞などで研究の世界について深く書かれた記事を目にする機会はほとんどありません。

NHKのサイエンス・ゼロなどの番組で、研究者の様子を垣間見ることもできます。しかし、番組は研究の世界の一側面を見せているだけであり(取材時間に比べてカットが多く、内容も製作者の主観に左右される)、研究の世界で活躍していて評判の高い人は、実はほとんどメディアにでてこない事情もあります(「21歳からのハローワーク(研究者編)」を参照)。そのような研究者は、論文という形で一生懸命アウトプットを出しているのですが、論文は学部教育や大学院、博士での研究トレーニングを経ないと読みこなせない(研究の内容だけでなく、意義すら理解できない)ため、学者間にとっては非常に価値のあることでも、一般の人にとっては無用の長物に見えてしまうことも少なくないのです。

そのように謎に包まれた研究の世界の様子を、tsugo-tsugoさんが、イラストを通して伝えてくれています。研究の面白さや、研究の進め方の本質をしっかりとらえていて、一部に根強いファンがつく人気ぶりです。僕もtsugo-tsugo劇場と勝手に名付けて、連載を楽しんで読んでいます。以下のリンク先からどうぞ。
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こんな感じのかわいいイラストで、研究の世界に流れる感動や空気、驚きや醍醐味などをよく伝えてくれています。

ただし、一つだけ注意。tsugo-tsugoさん本人もおっしゃっているとおり、実際の研究は、かわいいばかりでなく結構殺伐としていることが多いです。博士課程では論文という形で成果が出せないと鬱になりがちです(学生相談所には博士課程の学生の相談が多いとか)。それに、日本では、ポスドク以外のアカデミアのポストにつける博士の割合は3割以下でもあります(H20年度の統計で、1万人の博士課程修了者のうち大学教員になった割合は23%、その他の研究者になったのは26%です)。研究の世界に飛び込むときは、実際の雰囲気に加え、社会の現状を知った上で入るのが望ましいと思います。
参考:
テレビなどのメディアで紹介されていて分野に興味を持ったから、というのも悪くはありませんが、実際の研究現場と想像していた雰囲気のギャップに苦しむことがあります。例えば、一時期、精神鑑定がはやって精神科医を志す人が増えたけれど、プロファイリングなどの言葉でテレビで華々しく紹介されているのとは違い、現実はかなり地道な調査が要求される分野だそうです。(そもそも疾患者数が少なく、統計的に有意な結果が見出しにくいため、健常者にまで外挿した質問肢調査から病気の傾向を見出すSchizotypyのような研究が必要だったり)

参考:
  • 教授からのメッセージ (研究者という道について厳しく書かれています。しかし、実際これくらいの心づもりで闘争心を持って研究に臨んでいかないと、とても大成できないので、実は愛情たっぷりのお話)

研究の世界を知るには、実際に研究室を覗いてみたり、中に入って話を聞いたり、扱っているテーマに関して勉強して手を動かしてみるのが一番だと思います。僕自身、そうやって志望する研究室を変えた経験がありますし、自分が勉強したい分野と、実際にその研究が肌にあうかどうかは意外に異なるので、例えさわりだけだとしても、経験してみることが大事です。

研究テーマをベースに選ぶとしても、例えば生物学なら、対象が生物ではあることは常に変わらないけれども、実際に用いる研究手法は、測定機械、実験設備の有無、さらには特定の分野に強い人がいるかどうか、などという様々な事情で変わってきます。人の入れ替わりも激しい世界なので、5年、10年以上と同じテーマの研究を続けているラボは珍しいくらいです。ただ、研究の軸が一本通っていれば、それを元にいろいろな理論、手法、解析に手を出していける強みもあります。僕の場合は「データベースシステムを作ること」が研究の軸にあります。今現在は、ちょうど生物情報という融合分野にいますが、生物でも、情報系でも、そのアプリケーションは違えど、研究の目的自体にあまり違いはありません。

これからの研究の世界に飛び込む人には、酸いも甘いも知った上で臨んでほしい、という思いをこめて。

2009年1月3日土曜日

東大で学んだ「勉強」の意味-「教わる」から「学ぶ」へ

以下の記事を読んで、これは大学としての文化が違うのだなと感じました。

大学ってもっとすごいところだと思っていた。
なんかこう、毎日が発見に溢れていて大学じゃなきゃ知り得ないことがたくさんあって・・・
そんな素晴らしい世界だと思っていたのに・・・。

大学で秘伝を習うたった1つの方法
対価を支払っていないから秘伝を知り得ていないのだ。そこにいる人たちの中で、賢い人たちは全員秘伝を知っているし、その取得方法もわかっている。
とりあえず自分が、秘伝を教えてもらえるのにふさわしい対価を払えるようになろう。さすれば、自然と大学にある知の秘伝があなたのものになる。

どうやら大学には「秘伝」なるものがあって、それは「対価」を払って「教わる」か「引き出す」ものらしいです。「対価」として考えられるのは、学生さんのポテンシャルであったり、議論していてわくわくさせてくれるような「きらりと光る何か」だと思います。そういった教えることへのやりがいを感じれば、教員の方も喜んで「秘伝」を伝授する(とは思います。少なくとも僕自身に関しては)

しかし、いざ「秘伝」とも言うべき知見の集大成である論文や、コンピューター系ならソースコードが目の前に差し出されていても、内容を自分で読もうとしない(あるいは読み切れない)人が多く見受けられるようになりました。

近年、大学院での教育に重点が置かれるようになって、東大の大学院にも、東大の学部を経ずに、他の大学からの学生が多く入ってくるようになっています。もちろん、そこらの東大生より優秀な人もいるので驚かされることもありますが、どちらかというと、カルチャーショックを感じることの方が多いです。それは、彼らに共通して、
勉強は「教わる」ものだ
という意識が非常に強いこと。知人の助教(こちらも東大上がり)と話していても、やはりそう感じるそうです。

実は、東大に伝わる「秘伝」は、この正反対。
勉強は自ら「学ぶ」ものだ
「勉強」は人様から教えてもらうものではなく、自ら学んでいくもの。この意識が染みついてていたから、「勉強ができる=なにがいい? (404 Blog Not Found)」などで述べられている人から押し付けられるという「勉強」の定義の仕方には非常に違和感を覚えます。

また、東大で講義を受けていると、
「わからないところは自分で学ぶのが、大学院ですからね」
と言われることが多くあったし、大学時代の研究室の教授に、
「私は私の研究をします。みなさんも、自分で好きな研究をしてくださいね」
と、まったく教授から研究指導を受けなかったにもかかわらず、その研究室にいたメンバーのほとんどが、いまや旧帝大の教授にまでなっている、という実話もあります。


僕が卒業した東京大学理学部 情報科学科なんてところは、C言語の授業がカリキュラム上に全くないにもかかわらず、C言語でプログラミングする課題が出たり、「Javaくらい自分で学んでくださいね」とか言われたり、そういうのが当たり前に要求されるので、学生の方も自分で本を買ってきて1週間で新しい言語を学んで課題を仕上げてくる、というのが日常茶飯事になっています。

それに、僕の専門はデータベースなのですが、それに関連した講義は、在学中にたったの1コマ、さわり程度の授業しかありませんでした。DBのことは本当に論文と教科書だけで学んでいます。データベースの学科があって懇切丁寧なカリキュラムがある大学がうらやましくて仕方がないです。


教えてもらわなくても人が育つのが東大というところ。ただ、先にも述べたように、学生さんの方の意識が「教えてもらう」側に傾いてきているので、最近は、教える側もより丁寧にと力を入れています。従来のように、「残りは自分で勉強してきてね」、と放り出すだけだと、「勉強」しきれずに、試験・レポートで大半がさんざんな成績になってしまったり…。それでも、どんなに難しい試験だったとしても、満点はいつもいて、自ら「学べる」人がちゃんといることがわかります。


東大生が「学歴」を気にしないというのは、それはもちろん少なくとも日本の中ではトップクラスの大学だから引け目を感じなくて済むというのもあるけれど、「自ら学ぶ力を持った人」の強さを知っている、というのも大きい。「学ぶ力」は「学歴」を問わないから。だから、先のエントリで大学に失望している人には、もっと多くを自ら学べるように「頑張れ」とエールを送りたいと思います。

(追記)

誤解のないように断っておきますが、東大の前期教養課程(1~2年時)の必修科目の講義(特に実験など)は教材・教育方法に力を入れていて非常に丁寧です。実験データの整理の仕方など、論文を書くときに必要な力を叩き込んでくれます。だから、グラフには単位までしっかり記入するなどといった基本が身についてない他大学の学生さんをみると、逆に、ちょっとがっかりするものです。。。


(さらに追記)

誤解を招きそうだったので補足。東大の授業が手抜きなわけでは決してありません。ただ要求するレベルが総じて高いものになるため、授業が「手取り足取り」というわけにはいかず、必ず自分で学ばないといけない部分が出てくるのです。プログラミングなら、オブジェクト指向の考え方などはほとんど教わりませんが、オブジェクト指向で組まれたコードを読み書きする必要はあったりします。または、最新のCPUのアーキテクチャについて書かれた論文をぽんと渡されて、それを読んで発表する授業など、習った知識だけではこなせない課題が出されることも往々にしてあります。


(補足:2009年1月18日)

こう書くと、学生が皆自ら「学ぶ」のなら、大学の存在意義はないと思われるかもしれません。けれど、それだけでは「学ぶ」ことを続けていくには十分ではありません。なぜなら、周りに何もないところで、勉強を続けていくのは至難の業でからです(教育機関が整っていない国や地域のことを想像してみてください)。「学ぶ」ための題材、施設、そして学ぶ意欲を刺激する教師や仲間が集まってくることに、大学の本当の価値があると思います。

2008年12月3日水曜日

Googleで論文が書けるか?

Googleに入って論文が書けるか? 中の人が答えています。

A common question I get is "How hard is it to publish at Google?" I want to dispel the myth that it is hard. It is easy to publish, easy to put code into open source, easy to give talks, etc. But it is also easy for great research to become great engineering, and that is an incredible lure. (よく受ける質問が、「Googleで論文を書くのは難しい?」というもの。実際難しくはないし、コードをオープンソースにしたり、発表したりするのも問題ない。それに、いい研究をいい製品にもしやすい。それがGoogleの魅力だ。)
察するに、論文を書くことができるか?という文字通りの意味ではYes。でも、論文を書くためのincentive(きっかけ、強い動機)が生まれるか、インパクトのある論文を書けるようになるか、という点では、ちょっとわからない。ここで解答している人も、Googleに入ってから筆頭著者(first author)で論文を書いているわけではないし、Papers written by Googlers に紹介されている論文も、僕が知っている分野に関しては、Googler(グーグルの社員)単独のものではなく、もとから論文を書ける力のある人がGoogleの中の人と共著になっていたりする。あるいは、論文を書いてからGooglerになった、という傾向。

同じようなコメントが日本のGooglerからも欲しいものです。少なくともPapers written by Googlersの日本版が。というのも、大学関係の人の間では、論文を書く力がつく前の人材(学部・修士課程を終えたばかり)が、プログラミングができるという理由で、日本のGoogleに青田買いされている現状を非常に懸念しています。「論文を書ける」人材が本当に欲しい場合、僕が人事担当なら、PhDを持った学生、あるいは自力でそこそこの論文誌・学会に採録される論文を書いた経験のある人しか採用しません。

大学のように入ってから中で鍛えるのならそれで良いですが、鍛える力を持った人、論文を書くことに強い意識を持った人が中にいないのなら絶望的です。青田買いされた人材が、論文に関しては青田のまま終わってしまいます。Google以外の会社や大学の研究室でも同じことが言えて、研究志向を持っていない(過去にあまり論文を書いていない)人が上司になるだけで、論文を書くことは相当難しくなると思います。

論文が自身のキャリアにおいて大事なら、「書ける」かどうかだけではなく、「書くために必要な要素(論文へのincentive、経験を持った師匠となるべき人)」が揃っているかどうかも、ぜひ確認しておきたいところです。

2008年11月26日水曜日

論文を書く前に知ってほしい「言葉」の大切さ

「言葉」で「知性」のすべてが伝わるわけではない。そんなことは百も承知しています。
以前のエントリ「知性が失われてはじめて言語が「亡びる」」では敢えて「知性」とは何かを定義しないで話をしています。「丁寧な文体」が「知性」と同一だとは言っておりませんので、あしからず。それゆえ、リンク先での「知性」とは何かという議論に反論する理由はなくて、実際、そのとおりだと思います。

少なくとも、僕ら研究者は「知性」を育て「知性」を見出す仕事をしています。つまりは現場の人間です。言葉がつたなくても、対話的にその人の持っている可能性などの「知性」を見出すのが大学という場であり教師の仕事なら、「知性」を持っていることを自らが外に伝えるのが論文です。論文の場合、表現やプレゼンテーションなど、「知性」を伝える力も含めて「知性」と考えます。

もちろん、中身がからっぽでいいかげんなら、きれいな文章でいくら取り繕ってもだめです。

論文を書くということは、自分の知性を他に認めてもらう行為です。but, but, butと続く論文は決して読みやすいものとは言えません。しかも、言葉を疎かにして、他人(しかも学生なら、目上の教師)に馴れ馴れしく話しておきながら、「自分は賢い」と認めてもらおうとは、非常におこがましい態度と言わざるを得ません。査読する側としては、読みにくい文章・要点を得ない下手なプレゼンテーションから「知性」を見出すことを強いられるために、意味が伝わりさえすればいいという書き方は迷惑極まりなく、「論文」という媒体でやるべきことではないと強く思います。

研究の世界の査読システムは、人の善意で成り立っています。お金がもらえるわけではないし、年間に何十本と読むものなので、自分の研究時間が削がれていくばかりなものです。それなのに、肝心の論文を書く側に、言葉を洗練し、内容わかりやすく伝えるための努力、読んでもらう人への敬意がない。そんな論文ばかりが集まってくるようだと、査読する側も疲弊し「知性」を見出す努力が続けられなくなります。結果として、重要な学問への貢献が見い出せなくなる、学会・論文誌の質が下がる、と悪循環に陥いるのです。

論文の査読の評価項目には、「プレゼンテーションの良し悪し」というものがあります。評価が高い論文はきまってプレゼンテーションが良いもので、そのような評価を得た論文が全体の中でも常に上位を占めています。技術的に秀逸でも、プレゼンテーションが悪い論文を救出するには、査読者がshephered(指導者)の役を買って出て、論文をbrush upさせる仕事をしなくてはなりません。しかし、査読者は匿名が基本です。論文を世に出すのを手伝っても、お金も名声も得られないため、拾い上げてくれるかどうかは完全に査読者の善意に依存しています。ですから、論文からプレゼンテーションを練り直せるだけの「知性」を見出せないようなら、単に論文をrejectすることになるでしょう。

僕が本当に伝えたかったのは、書き手の方こそ、良い文章・洗練された表現を書くために頑張って欲しい、ということです。 特にそれが学問という、善意や熱意で成り立っている場所ならなおさらです。

この努力を怠った結果は、既に今の日本で見ることができます。頑張って書かれた論文でも、返ってくる査読結果が数行で適当に書かれたものであったりと、査読者側が最初からやる気をなくしている場合があるのです(これは日本に限らないですが…)。投稿する側も、いまや研究の世界の普遍語となった英語で書くことが大事なので、手軽に業績を増やすために、英語で書いたものを日本語に直して出してしまおう、と、日本語としての文章を練り直す努力を怠ります。当然、査読者はさらにやる気を失います。極端なことには、論文を日本語では書かないという方向にもつながっていきます。そうしているうちに、「知性」を伝えることも、また「知性」を見出す仕事へのやりがいも日本語からは失われ、英語の世界に奪われる方向に傾いてしまいました。「知性」が失われたのが先か、「言葉」への思いが失われたのが先か。

「知性」は「言葉」だけでは伝わらないかもしれない。でも、「知性」を守り得るのも「言葉」なのです。

2008年11月22日土曜日

知性が失われて初めて言語が「亡びる」

これは「逃げ」でしかない。特に研究の世界においては。
むしろこれから起こるのはネイティブイングリッシュの破壊であるとか
ネイティブの英語論文より非ネイティブの英語論文の方が読みやすい場合がないか?
論文が読みやすいとしたら、それは良く練られているからだ。そもそも、わかりやすい表現が良いというのは、日本語、英語の区別がない。文章を吟味することから「逃げ」て済むなら良いが、それでは投稿してもろくに読まれないから身を滅ぼす。安易にこのような考えに同調する人がいるのがとても心配だ。

日本人が書いた日本語論文であっても読みにくい例の枚挙には暇がない。口語の方がわかりやすい?口語中心のブログでも読みにくい文章はうんざりするほどある。(例えば、「日本語が亡びるとき」の書評を批難したり、あるいは水村美苗本人を攻撃するときに、読みやすく、かつ、知性をうかがわせる文章で応えた人はほとんど見受けられない)

もし世界の標準が「日本語」で、皆が日本語で論文を書くようになったとしたらどうだろう。段落ごとに「てにをは」や「漢字」の間違いが出てくるような論文は、すぐに読む気がなくなってしまうのではないだろうか。

崩れた日本語を見たとき、まず、その言葉を操る人の知性が疑われることを肝に銘じてほしい。それが英語であろうと、ブログのような媒体であろうと同じだ。投稿される論文の中には、方言や崩れた言葉が多く混じったものもあるだろうが、競争の世界の中で消え去って日の目を見ることはない。もし表に出てくるのであれば、その論文誌・学会で査読が機能しておらず、「知性」が失われつつある兆候だ。

先の意見は「日本語が亡びるとき」を「英語が亡びるとき」に置き換えてみたのだろうが、間違った用法がはびこるから「亡びる」というのは、大きな読み違いと言わざるを得ない。

言語が「亡びる」のは、その言語を使う人の知性が失われた時だ。


(追記)
日本人特有の英語の書き方に興味があるなら、「日本人の英語 (岩波新書)」を手に取って読んでみることをお勧めする。文法ミスとまではいかなくても、意味の通じない日本人英語の例がいくつか紹介されている。The Elements of Style (Elements of Style)を読むと、英語のネィティブであろうと、「必要なことだけを書く」ために文章を練りなおさなければいけないことを教えられる。日本人の英語、論文が受け入れられないのは、日本人特有の不自然な英語が出てくることで、まず「知性」が疑われ、次に、文章で伝えるべきことをsuccinct(簡潔)に書けていないために、査読者に苦痛を与えているという事情が大きいと思われる。英語が不得手なほど、簡潔に書くための努力が必要となる。今後、多くの日本人が、「良い論文を書くために」内容ともども、文章も十分練り直して欲しいという思いを込めて。

2008年11月15日土曜日

21歳からのハローワーク (研究者編)

これから研究を志す人のために、「13歳のハローワーク」よりもう一段深く分類してみました。

研究者
研究をする人。

良い研究者   
他の研究者から評価を得ている人。

著名な研究者
他の研究者にではなく、メディアや書籍を通じて一般の人にわかりやすく伝えて評価を得る人。架け橋としての役割を担い、他の研究者からの評価は問われない。

2008年11月13日木曜日

これから研究をはじめる人へのアドバイス

まずは、この記事を書くきっかけとなった文章を紹介。リンク先を読んでみてください。
 
「彼氏が和文雑誌に載ってた。別れたい・・・」

研究の世界 上の文章はもちろんネタですが、研究を続けていくと本当にここに書かれたような、トップジャーナルに通ってなければ…、という世界が待っています。実際、僕自身もいつもこのような心づもりで研究しています。ただ、ひとつ気になったのは、自分自身の経験や、周りの様子を見る限り、Cell, Nature, Science (CNSと俗に言われます)などは、自分一人の実力だけで採録されるわけではありません。この人がいなかったらここまでの成果は出なかった、という貢献は確実にあるけれど、大抵は多くの人の長年の努力の積み重ねの結果acceptされています。

研究のインパクトの大きさ だから結果として、団体で金メダル!くらいには誇れますが、これを個人の功績と考えるのはあまりに決まりが悪いものです。僕が情報と生物の融合分野にいながら、情報系でかつ腕一本でできる研究も続けているのは、この決まりの悪さを避けたいという事情もあります。

でも、世の中へのインパクトから言うと、小人数でできる程度の仕事が中心の情報系トップクラスの会議(情報系はジャーナルより、会議の論文の方が主要です)と、Natureに載るのとでは雲泥の差がありますし、研究は常に後者を目指すべきものだと思います。なぜなら、情報系の小さなアイデアは、Googleのようにサービス化してはじめて世の中に大きなインパクトを与えられるもので、そのインパクトは論文を書くだけでは作り出せません。けれど、Natureなどの記事は、既に多くの研究者、テクニシャンを駆使しているという意味で、実際にサービスを作りだすのに近いものが多く、それゆえ大きなインパクトを残せるのだと考えています。

本当に目指すべきはPI グループや周りの研究者が優秀だと、それほど苦もなくCNSの論文が出ることもあるでしょう。ただ、そういうことが続くと、いざ自分がPI (Principal Investigator. 研究を率いる人・主任研究者) になるときに、途方に暮れてしまうのではないでしょうか。それでは、いくらCNSがあっても見かけ倒しでしかありません。さらに高みを目指して、自分で研究すべき対象を見定め、研究プランを立て、インパクトのある論文を仕上げるところまでできる力を持った人になってほしい。そのトレーニングとして、低予算、腕一本でできる研究に挑戦するのは悪くない選択肢だと思います。研究者にならず、ビジネスの世界に飛び込んでいったとしても、論文の代わりに、売れるもの・サービスを生み出すという違いだけで、PIとしての役割はそれほど大きく違わないでしょう。

研究テーマを探す 自分には才能がない? そんなこと言わないで。同じ分野、研究室という狭い範囲の中で競争しなくたって、広く見渡せば、世の中にはまだわからないこと、うまく解けていない問題が溢れてます。どんな問題が、今手元にある「知識」「経験」という道具で解明できるのか、嗅覚を働かせてみましょう。どうも解けそうにないと感じたら、いったん手を休めて、問題を温めておくのも手です。数年後によいアプローチが閃くことだってあります。知見や設備が整って初めて取り組めるようになる問題だってあります。同じ問題をしつこく考え続けられるくらい愚直な人の方が、案外研究に向いていることもあります。
「科学者になるには『あたま』がよくなくてはいけない」(中略)しかし、一方でまた「科学者はあたまが悪くなくてはいけない」
世の中の偉い研究者達がこれが大事だ、と盛んに取り組んでいる問題が、5年10年したら廃れていることなんて本当によくあります。情報系には、数学的に面白いという理由で盛んになったけれど、実際には誰も使わない、アプリケーションがないという論文の屍が多くころがっています。ですから、実際に研究成果を使うユーザーの視点から問題を見詰めると、今まで優秀な研究者達が気づいていなかった、まったく斬新な切り口を見出せることがあります。でも、本当にそれが新しいアプローチかどうかは、よく勉強していないと判断できないことです。そのために、普段から自分で教科書、論文を探してきて勉強を続ける習慣が必要です。あるいは、先進の研究者に意見を聞くのも早道だと思います。

サーベイする いったん取り組むべき問題を見つけたら、似たような問題がないか、この問題は過去にどのように考えられていたのか、を念頭に置いて、PubMed, Google Scholarなどで過去の論文を漁ります。ポイントを絞ってするサーベイ(研究調査)は、論文を一本一本丁寧に読むよりは素早く終えることができます。


問題と向き合う ひととおり調べ終わったら、他の論文も読みたい、まだ勉強が足りないという、邪念を排除して問題に取り組みましょう。最初は、コンピュータやインターネットから離れて、ノートと鉛筆だけで考えた方が集中できて良いと思います。今まで学校で習った知識などを総動員して研究計画、解法を練っていくうちに、あの授業は大切だった、と思うこともあるでしょう。大学の授業のありがたみがわかるのは、たいてい後で必要なことに気付いてからです。(話を少しそらすと、例えば、高校・大学受験の段階で、国数英理社の勉強が大切だと、勉強をしたくない子に説得するのはとても難しいことのように思います。)

勉強する意欲が一番高まるのは、この必要に迫られた段階です。意欲が十分高まったら、教科書や論文に戻って、今度は詳細に読み込んでみるのが良いと思います。読むだけではなく、実際に手を動かす(プログラムを書く、実験するなど)を交えるとさらに効率が良くなります。

論文を書く とにかく根気が勝負です。英語で8000 wordsのfull paperを書くには、書き慣れた研究者でも2週間をフルに使うようです。時間がかかるものだということを、覚えておいてください。でも、最初から上手にかけなくても心配しないで。上手になるまで書き直し、ロジックが飛ばないように修正していけばいいのです。それと同時に、問題と向き合いつつ、論文、あるいは研究テーマそのものを練っていくのが大事なことです。


論文を投稿する 投稿する場所の選択は、自分が今後どのような研究者として生きていくかを選ぶに等しいです。CNSや情報系のトップ会議のように競争率が高いところでは、投稿数も多く、査読者の巡り合わせや、いい成果だったとしても研究の重要性がうまく伝わらず落とされてしまうなど、ギャンブル的な要素が多分にあります。いったん査読に入った後の待ち時間も長いので、長い間待って結局rejectということになると、特に将来が不透明で早く業績が欲しい院生・ポスドクの段階では末恐ろしいものです。ただし、acceptされれば、その喜び・達成感には計り知れないものがありますし、アカデミアの世界でポストを見つけやすくもなるでしょう。まさに、Publish or Perish (採択か死か)の世界です。

熾烈な競争を避け、手頃な発表場所を狙うのも良いですが、その場合、世の中へのインパクトは相当低いものになります。まず、研究を引用してくれる人が極端に少なくなることを覚悟してください。そのため、研究成果を実用化してくれる人を見つけるのも難しくなります。もっと深刻なのが、注目されなかった研究・論文の作成に費やした膨大な時間の意義を、自分の中でどう解決するか、ということ。学んだことを活かして、本を書く、ビジネスに還元するなど、自分の生きた足跡を残す方法は、トップジャーナルの論文を書くだけに留まりません。人生の選択ですので、ここは慎重に考えてください。自分の今のレベルはこうだから。。。と安易に通しやすい学会ばかりを選んでいると、PIになる訓練を怠りがちなり、かえって将来の道を閉ざすことにもなりかねません。

最後に 研究は学者たちだけのものではありません。サーベイでは、データや過去の知見を集めて検証する力が身に付きますし、ゴールをしっかりと見据えて問題解決に取り組む力は、大学を出て企業に勤めたり、ビジネスを起こすにしても重要な能力です。論文を書くことを通して学んだ、わかりやすく自分のアイデアを伝えるための能力は、プレゼンテーションにも活きてきます。たとえ在学中の短い間だったとしても、研究に取り組んで得た経験は、今後の人生において大きな糧になることでしょう。

ちなみにアメリカでは、Ph.D を取って出た学生の方が、教授より稼ぎが多くなる、なんてことはざらにあるようですね。一方、今の日本は研究する能力への評価が世界と比べて極端に低い社会になっていることには注意してください。深く研究した人の話をろくに聞かないで、あれこれ騒ぐというのはとても悪い兆候です。専門家不在の有識者会議が開かれるなど、まるで研究なんて必要ないという風潮がいたるところで感じられます。

この記事を読んでくれた人が今後大きく活躍し、様々な分野で今の日本を変える力になってくれることを期待しています。

2008年11月9日日曜日

たった一つの準備で勉強会は変わる

この記事で伝えたいことは一つ。

建設的な議論を始めるには、準備が必要だ。

本について語るなら、まず本を読む。輪講なら、自分が発表者でなくても、ざっと本に目を通してわからない点をチェックしておくこと。

たったこれだけの準備で、グループでの議論は実りあるものになります。本に書かれている以上の話ができるからです。その段階までいかなくても、わからなかった点を周りの人に確認し、本の内容をより深く理解することができます。

準備をしてないとこうはいきません。まず、なぜこの本を読んでいるかわからない参加者が出ます。さらに、本の紹介者の話がわからなくなると、その段階で思考が停止する。あるいは明後日の方向の議論が始まってしまいます。輪講や勉強会のようにその場で内容を尋ねられるならまだ救いようがありますが、ブログのように対話的(interactive)な議論が難しいメディアでは、理解を深める術がありません。本を読んでないから教えて、というのが通用するのは、その人が教えるに値する場合だけだと考えてください。(知見のある先達であったり、内容に詳しくなくて当然の他分野の研究者など)

大学での研究生活を通して輪講をする機会は幾度となくありましたが、参加者が本を読まなかったときの不毛さには目も当てられませんでした。本の知識は読んできた人だけのもので、読まなかった人には見せかけの充実感だけが残ります。発表側には、自分で本を読み解く以上のものは得られず、プレゼンという参加者へのサービスの重荷が増えるだけです。ですから、今では、受け身の参加者しか集まらなさそうなときは輪講を開いていません。

このような話をしているのは、梅田望夫氏がTwitterでした以下の発言に対するネットでの炎上の様子があまりにも幼稚であるから。
はてな取締役であるという立場を離れて言う。はてぶのコメントには、バカなものが本当に多すぎる。本を紹介しているだけのエントリーに対して、どうして対象となっている本を読まずに、批判コメントや自分の意見を書く気が起きるのだろう。そこがまったく理解不明だ
梅田氏は「ウェブ進化論」などの著書で、ネットをとりまく急速な変化と、そのまっただなかに放り込まれてしまった現代の若者にエールを送り続けています。著書への感想をブログに書いてトラックバックを送信した人には、賛否両論含めてブックマークしているし、内容にも目を通しているそうです。この行動を見ていると、自分と異なる意見も含めて、彼が建設的な議論を欲しているのが伺えます。初対面の人と対談するときも、その人のブログなどをあらかじめ読んでいくから、昔からの知り合いのように話が弾むといいます。

準備をした上で議論することがいかに面白いか。その面白さを知ってしまうと、その準備をしてこない人への興味が途端に失せてしまうのでしょう。何も難しいことを要求しているわけではありません。準備はとても簡単。

同じ土俵で議論をするためには、何よりもまず、本を読むこと

本の内容をすべて理解することを要求しているわけではないし、言葉で書かれたものの解釈は、聞く人のバックグラウンドによって変わるのが普通です。むしろ、その違いが面白く、新しい発見につながることもあるのです。違う観点からの解釈で、内容の理解を深めることあります。

今回話題になっている本は、「日本語が亡びるとき」という書籍。Amazonで注文してからまだ届いていないので、議論に参加できないのが残念ですが、英語でしか本当の意味で活躍できる道が残されていない研究者として、思うところがふんだんにあります。本を読んだあと、またブログで感想を書きたいと思います。

(追記)このあと、「日本語が亡びるとき」についてはいくつか雑多な記事を書きましたが、以下のエントリが、一番僕の伝えたいことをまとめているかと思います。

2008年7月23日水曜日

良い論文を書くために知っておくべき5つのこと

英語で科学技術論文を書くための書籍はいくつか出版されていますが、大抵、日本語と英語の表現やロジックの違いの説明が主で、「論文」というよりは「英語」の学習と質的に変わりません。ここでは、「論文」をいかに書くか、さらには「論文」を書くために「研究」をいかに進めるかという点に踏み込んだ内容を紹介していきます。

まず、コンピューター系の論文の書き方のHow toを示した書き物として、DB分野で有名なJennifer Widomの以下の記事が、良い指針となります:
この中から、introduction (導入部)で説明すべきことについて引用しました。
  • What is the problem? (解いている問題は何?)
  • Why is it interesting and important? (なぜその問題が面白くて重要なの?)
  • Why is it hard? (その問題のどこが難しいの? 簡単な方法で解けないの?)
  • Why hasn't it been solved before? (なぜ今まで解かれてなかったの?)
  • What are the key components of your approach and results? (あなたの仕事のどこが重要なの?)
1. Abstract, Introductionが9割を語る

論文査読では、自分と同じ専門分野の人に巡り会えることは稀です。むしろ専門外の人に読まれるのが通常で、あうんの呼吸で問題が伝わる、なんて信じることに意味はありません。皆がコンピューターに触れるようになって、コンピューターサイエンスの分野も相当広がってきました。それに伴い、論文と同じ研究テーマに洞察の深い専門家に当たる確率も相当低くなっています。XMLの論文だからXMLに興味がある人向けに書く、ではなく、コンピューターサイエンスをかじった程度の人でも、abstractを読んで「XMLにはそういう性質があるのか、なるほど。面白そう!」と思えるように説明するのが大切です。上に挙げた5つの項目がintroductionで綺麗に説明されていない論文は、僕が査読した論文や、自分が過去に書いた論文も含めて、十中八九、いい論文(つまり読みやすい論文)にはなっていません。introduction以降の文章はろくに読まれないか、書いた本人の意図やアイデアがうまく伝わらず、見当違いの評価が返ってくるのが落ちでしょう。

2. コードを練るより先に、伝えるべきことがある

コンピューターサイエンスの分野においては、良いものを作るのはもちろん大事なのですが、そこから「良い論文を書く」までの間には相当な壁があります。日本では、この「良い論文を書ける」域に達している人が、欧米、さらにアジア圏内で見ても、圧倒的に不足しています。DB分野では既にシンガポールの方が論文を書く力は日本より優れているようです。技術的には、日本人でも、アルファギークと呼ばれるプログラマが多くいたり、未踏ソフトウェアでスーパープログラマと認定される優秀な人がいますが、必ずしも彼らが研究の世界でプレゼンス(存在感)を発揮しているわけではありません。(DBLPから氏名を検索すると活躍の度合いがわかると思います)

この壁の正体は何か? コードを書ける人が陥りがちなのが、文書よりもコードを改善してしまうという罠です。作りあげたコードには、いろいろなノウハウや、論文に書ききれないくらいたくさんの最適化のための改良が施されていることでしょう。うまくいけば、決して他の人には作れないユニークなものが出来上がります。でも、ちょっと待って!論文は人に技術、アイデアを伝えるために書くもの。そんな人が真似できないものを作ってどうするの?

システムが複雑で、性能評価にいろんな要素が入ってくるほど、他の人が利用できない(つまり後続が現れない)研究になります。オープンソースの世界と同じで、研究の世界でも、人に面白い問題、アイデアを提起してあげると、あとは周りが勝手に問題を読み取って、後続研究が広がります。そんな動きを触発するには、コードを練るのと同じか、あるいはそれ以上に文章を練ることが大切です。アイデアを一番伝えられるのは、何よりもまず文章です。

3. 良い文章とは、悪い文章を書き直したものだ

最初から良い文章を書くことの難しさは、物書きなら誰もが直面する課題ではないでしょうか。良い文章がすらすらでてくる人が天才なら、そうでない自分は物書きには向いていない。そのような思考に陥りがちだった僕を十二分に救ってくれたのがこのフレーズです。

引用元のGood Writing by Marc H. Raibert には、文章を書くテクニックというよりは、書くために必要な心構えが記されています。kunishi先生のブログでも紹介されていますが、そもそもRaibertの文章そのものが、"Good writing is a bad writing that was rewritten (良い文章とは悪い文章を書き直したものだ)"の実例となっているのですね。

4. 書いた文に振り回されるくらいなら、思い切って捨てなさい

これも上のRaibertの記事から。文章を書いていると、とても良い文が書けたと思うことがあります。ただ、書き進めていくうちに、その文が周囲の文章と合わなくなったり、伝えたいことと内容が離れてしまうことがあります。でも、せっかく書いた名文は生かしたいというのが人情。

そんな文章の断片があちらこちらにでてくると、頭の中では文章という複雑なパズルのピースを組み合わせる作業が始まってしまいます。文章のニュアンスであり、既に説明した情報であり、いろんな要素を頭の中で組み合わせて文章を書くことになります。プログラムを組み立てるときも似たようなことが起こりますが、文の与える印象の方がより抽象的な部品なので、相当難しいパズルを解くことになります。

そういうトラップにはまったなと感じたら、その名文の部分を思い切って捨てます。さすがに、ただ消し去るというのでは忍びないので、PRIZE_WINNING_STUFF.txt (これは賞を獲れる!)というファイルに貼付けて保存して置きます。パズルのピースが減って、伝えたいことに絞って文章を書くだけでよくなるので、驚くほどの効果があります。必要なら、あとで「賞を獲れる名文」を戻してもいいでしょうが、僕自身の経験で、ここから復活したフレーズはありません…。 

PRIZE_WINNING_STUFF.txtは、最終的にほとんど役に立たないにも関わらず、論文を書くときにこれほど役に立つ道具はありません。

5. 良い研究でもシンプルなアイデアでできている

難しい研究に見えても、根本的にはシンプルなアイデアでできていることがほとんどです。論文の格を上げるために、式の定義を小難しく見せる必要はありません。問題解決のアプローチがシンプルであっても構いません。問題を解くことで分野の研究を一歩進める、そしてその成果をわかりやすく伝えることが何よりも大事です。

これを説明するのには教科書が良い例だと思います。教科書というのは、その分野をよく理解した人が、技術の内容を噛み砕いて、わかりやすく説明したものです。その最たる例として、DB分野には、現在のトランザクション管理には欠かせない技術であるARIES (WAL: Write-ahead logging)の論文があります。この論文は、分量も多くDBをよく知っている人でも読みこなすのは大変なのですが、教科書になると1ページで、アイデア自体もとても平易にまとめられる内容です。教科書というのは、元は論文であった知識を短く、かつ、技術を再現するのに十分な情報を持っている文章です。簡単だからといって、重要でないわけではありません。

では、噛み砕けばシンプルなアイデアをいかに論文として仕上げるか? 重要なのは、シンプルなアイデアを素直に説明できる力にあると考えます。

先ほども述べましたが、日本ではプログラミング能力はあるけど、PhDをまだ取っていない(あるいは取る意思のない)若手が注目を集める一方、グーグルでは、PhDを取得した人を積極的に採用しています。プログラムの力量という意味ではPhD自体は意味を持ちませんが、PhDが示すのは、論文を読んで最新技術の詳細を理解でき、その上で、「新しいものを作り上げる力」を持っているという証です。過去を知らずして「新しいもの」は説明できないし、意図的に「新しいもの」の開発もできないでしょう。「新しい」は常に過去の技術との比較です。過去の論文で、問題がどのように定式化されているかを知っていることも、アイデアを簡単に伝えるためには必要です。

また、アイデアやアプローチがシンプルであっても、対象としている問題が重要で、解くこと、調べることに価値があれば、それは立派に「研究」として成立します。そして、この対象とする問題の重要性を考えることが、冒頭に挙げたintroductionに書くべきこと(問題設定、なぜ重要か、問題の難しさ、過去の研究との比較)に反映されていきますし、introductionを書いたときに、不足している実験が見えてくることもあります。このサイクルが研究の進める上で非常に大切です。

ACMのSIGに代表されるコンピュータ系のトップ会議に論文を通すためには、五十嵐先生の記事にあるように、もう少し努力や工夫が必要なようです。喜連川先生もインタビュー記事で語っていますが、そのようなトップの国際会議では3回くらいrejectされるのは当たり前で、落とされたからといって、がっかりしすぎてもいけないようです。さらに、いい研究ならば2番手の会議はスキップして、トップの会議に出すまで1年くらいsubmitを控える(!)なんてこともあるようです。

最後に、大前提として再びGood Writing by Marc H. Raibert から。

良い論文を書こうと思うこと、そして、書けると信じること

これがなくては、先に進めません。書く力は年をとっても伸び続けると聞きます。あきらめないことが肝心です。

2006年11月6日月曜日

上手なプレゼンテーションとは

今学期は、久々に大学の講義に参加してみています。

講義の形態は、学生が毎回発表するというもの。
修士1年の学生さんが多いせいか、覇気が足りない。。。

課題を与えられたら、与えられた文献しか読んでこない人とか、それすら読みこなせていないというのがちらほら。自分が発表したときは資料探しから始まって、何百ページもある資料にいくつも目を通して、基本を学んで、実験評価もして、と相当時間を費やして望んだのに、他の人からそれくらいの気概が感じられなくて、悲しい限り。(東大生なんだから1週間もあれば英語で100ページくらい読んできてよ! というのが本音)

もちろん、プレゼンテーション技術が未熟なこともあるのだけれど、それ以前に、一つのトピックをわかりやすく紹介するには、そのトピックだけでなくて、トピックを含むもっと広い分野の知識が必要という認識がまだない様子。

それだから、プレゼンを聞いていると、この研究はなぜ重要なのか? という視点を欠いたまま(発表している本人も理解していない様子で)発表を続けられてしまうので、聞いている方は、すぐ迷子になってしまいます。

問題は、発表する側の視野が局所的なこと。いくら研究の子細を丁寧に伝えたとしても、それだけでは、他にもっといい方法があるのでは? と疑問に思ってしまうし、様々な研究の流れの中で、いま発表している内容はどういう位置づけにあるものなのか、ということもわからない。そのような大局的な視点がないプレゼンテーションは、同じ問題意識をもった人たち(例えば研究室の仲間とか)にしか価値がありません。

大局的な視点を身につけるには、たくさん学ぶこと。これに尽きます。よく書かれた論文や教科書は、そのような大局的な知識を効率よく与えてくれます。既に学んでいる人から、そのような知見を引き出せると、次のステップへ進む重要な足がかりとなのですが、どうも数ある授業の課題の1つとしか捉えていない発表者から、そのような知見を得ることは難しいようです。

自信を持って発表できないのは、やはり勉強が不足していることが一番の原因。すべてを完全に理解している必要はありませんが、少なくとも、何がわかっていて、何がわかっていないかを理解することは必要。そのレベルまで達している人とそうでない人とでは、自ずとプレゼンテーションの出来も変わってくるものです。

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