2009年6月10日水曜日

炭鉱のカナリア

論文書きなどで論理を練る訓練をしていると、文章には、指す対象を「あいまい」にしたまま扱える「表現力の強さ」がある、と気付くようになりました。

論文ではあいまいな表現はすぐに潰しますが、ブログで書く文章では、対象を限定しすぎてしまわないように敢えて「あいまい」にしたり、意図的に、根拠などが「あいまい」な事柄をもとに「あいまい」なことを書いて、AでBになり、だからCという一直線のロジックだけではうまくとらえられないものを表現したりしています。 なので、曖昧かどうかの区別は、おそらく普通の人より随分とはっきりしていて、読み手がどの部分に「あいまいさ」を感じて、ひっかかるかは、把握しているつもりです。

それゆえ、はてブなどで、他の人にとっては「あいまい」な表現だと気づかずに、自分の世界の中だけしか意味の通じない文章を、敵意むき出しで投げかけられると悲しくなります。なぜなら、そのような言葉を投げかける人にとっては何も「あいまい」ではないから。文章の意味は「あいまい」だけれど、敵意だけは伝わる。防ぐのが難しい強力な武器。

この様子を「炭鉱のカナリア」とは、よく言ったものだと思う。
山形浩生氏のように、徹底的に「あいまい」な部分や、相手の至らなさを糾弾して、相手を打ち負かすというのも一つの手だとは思いますが、僕の場合は、そこでまともに「相手にする」ことで得られるものに期待できず、やられっぱなしになるばかりで疲れだけが溜まります。

これは、ある意味「相手に議論する価値を認めていない」失礼な態度なのですが、「文章が伝えるもの」を意識しないと良い循環が生まれない、「残念」に「残念」という禅問答の域を越えられない、僕が先のエントリで言葉にしたかったのは、まさにそういうことなんです。(これも「あいまい」な表現ですね)

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