以下の記事を読んで、これは大学としての文化が違うのだなと感じました。
大学ってもっとすごいところだと思っていた。なんかこう、毎日が発見に溢れていて大学じゃなきゃ知り得ないことがたくさんあって・・・
そんな素晴らしい世界だと思っていたのに・・・。
大学で秘伝を習うたった1つの方法対価を支払っていないから秘伝を知り得ていないのだ。そこにいる人たちの中で、賢い人たちは全員秘伝を知っているし、その取得方法もわかっている。
とりあえず自分が、秘伝を教えてもらえるのにふさわしい対価を払えるようになろう。さすれば、自然と大学にある知の秘伝があなたのものになる。
どうやら大学には「秘伝」なるものがあって、それは「対価」を払って「教わる」か「引き出す」ものらしいです。「対価」として考えられるのは、学生さんのポテンシャルであったり、議論していてわくわくさせてくれるような「きらりと光る何か」だと思います。そういった教えることへのやりがいを感じれば、教員の方も喜んで「秘伝」を伝授する(とは思います。少なくとも僕自身に関しては)
しかし、いざ「秘伝」とも言うべき知見の集大成である論文や、コンピューター系ならソースコードが目の前に差し出されていても、内容を自分で読もうとしない(あるいは読み切れない)人が多く見受けられるようになりました。
近年、大学院での教育に重点が置かれるようになって、東大の大学院にも、東大の学部を経ずに、他の大学からの学生が多く入ってくるようになっています。もちろん、そこらの東大生より優秀な人もいるので驚かされることもありますが、どちらかというと、カルチャーショックを感じることの方が多いです。それは、彼らに共通して、
という意識が非常に強いこと。知人の助教(こちらも東大上がり)と話していても、やはりそう感じるそうです。
実は、東大に伝わる「秘伝」は、この正反対。
また、東大で講義を受けていると、
「わからないところは自分で学ぶのが、大学院ですからね」
と言われることが多くあったし、大学時代の研究室の教授に、
「私は私の研究をします。みなさんも、自分で好きな研究をしてくださいね」
と、まったく教授から研究指導を受けなかったにもかかわらず、その研究室にいたメンバーのほとんどが、いまや旧帝大の教授にまでなっている、という実話もあります。
僕が卒業した東京大学理学部 情報科学科なんてところは、C言語の授業がカリキュラム上に全くないにもかかわらず、C言語でプログラミングする課題が出たり、「Javaくらい自分で学んでくださいね」とか言われたり、そういうのが当たり前に要求されるので、学生の方も自分で本を買ってきて1週間で新しい言語を学んで課題を仕上げてくる、というのが日常茶飯事になっています。
それに、僕の専門はデータベースなのですが、それに関連した講義は、在学中にたったの1コマ、さわり程度の授業しかありませんでした。DBのことは本当に論文と教科書だけで学んでいます。データベースの学科があって懇切丁寧なカリキュラムがある大学がうらやましくて仕方がないです。
教えてもらわなくても人が育つのが東大というところ。ただ、先にも述べたように、学生さんの方の意識が「教えてもらう」側に傾いてきているので、最近は、教える側もより丁寧にと力を入れています。従来のように、「残りは自分で勉強してきてね」、と放り出すだけだと、「勉強」しきれずに、試験・レポートで大半がさんざんな成績になってしまったり…。それでも、どんなに難しい試験だったとしても、満点はいつもいて、自ら「学べる」人がちゃんといることがわかります。
東大生が「学歴」を気にしないというのは、それはもちろん少なくとも日本の中ではトップクラスの大学だから引け目を感じなくて済むというのもあるけれど、「自ら学ぶ力を持った人」の強さを知っている、というのも大きい。「学ぶ力」は「学歴」を問わないから。だから、先のエントリで大学に失望している人には、もっと多くを自ら学べるように「頑張れ」とエールを送りたいと思います。
(追記)
誤解のないように断っておきますが、東大の前期教養課程(1~2年時)の必修科目の講義(特に実験など)は教材・教育方法に力を入れていて非常に丁寧です。実験データの整理の仕方など、論文を書くときに必要な力を叩き込んでくれます。だから、グラフには単位までしっかり記入するなどといった基本が身についてない他大学の学生さんをみると、逆に、ちょっとがっかりするものです。。。
(さらに追記)
誤解を招きそうだったので補足。東大の授業が手抜きなわけでは決してありません。ただ要求するレベルが総じて高いものになるため、授業が「手取り足取り」というわけにはいかず、必ず自分で学ばないといけない部分が出てくるのです。プログラミングなら、オブジェクト指向の考え方などはほとんど教わりませんが、オブジェクト指向で組まれたコードを読み書きする必要はあったりします。または、最新のCPUのアーキテクチャについて書かれた論文をぽんと渡されて、それを読んで発表する授業など、習った知識だけではこなせない課題が出されることも往々にしてあります。
(補足:2009年1月18日)
こう書くと、学生が皆自ら「学ぶ」のなら、大学の存在意義はないと思われるかもしれません。けれど、それだけでは「学ぶ」ことを続けていくには十分ではありません。なぜなら、周りに何もないところで、勉強を続けていくのは至難の業でからです(教育機関が整っていない国や地域のことを想像してみてください)。「学ぶ」ための題材、施設、そして学ぶ意欲を刺激する教師や仲間が集まってくることに、大学の本当の価値があると思います。