ふと、同じ学科の五十嵐先生の日記をながめていると、ちょうど今の僕と同じ、博士審査の頃の日記がありました。
僕自身の博士審査に関しては、事前に審査の先生方とお話して、感触はつかめてきたので、今は、今後どう研究をしていくかの方が気になるところです。五十嵐先生は年に何本も論文を出しているので、どうしたらそんなにパフォーマンスを発揮できるんだろう、とか。
まぁ、そういうコツみたいなものは書いてないのですが、逆に、論文が落ちてがっかりしたという記述も多くて、あれほどすごい業績を上げている先生でもそういうものなのかぁと。
他にも、日記の中に、いくつか共感できることがありました。引用しつつ、僕の感じたことを挙げてみます。
・ACMの学会のようにTop Conferenceになると、査読する方は気合が入っています。馬鹿なことを書くと恥だという風潮があるんですよね。だから、出した論文が通らなくてがっかりしたとしても、読んでしっかり査読してくれた跡がうかがえるので、次に頑張ろうという気になります。コミュニティの質は、ここで決まるのかなと。 研究室に入ってから、日本語の論文って1回しか書いたことがありません。人生初の論文で、最初の1回、それきりです。論文は通ったのだけれど、あまりに読む人がsurveyをしていないのが感じられて、とてもがっかりしたのです。国際会議でも、中堅かそれ以下のものになるとそういう傾向が見られます。明らかに結果だけ見てコメントしてる、とか。日本の学会を軽視しているわけではないのですが、新しい知見とか、するどい指摘が得られない場所ではやりがいが見出せません。
・「研究のコミュニティは素晴らしいところ」。お金のためでなく、同じ興味をもった人達が集まってきて、情報交換したり、議論したり、で最先端の知識や技術を発展させていく。そういう場があるというのは素晴らしい。 なるほど。同じ興味を持つ人って、実は同じ研究室内という狭い場所よりも、世界中から集まってきた方が、実は良い話ができるんですよね。 日本の学界だと、論文を通すことを目的としすぎて、「悪いところを隠し」て論文を書くように指導する教授もいるようで。。。皆の共有知識を増やしていくという雰囲気が日本にないことを嘆いています。僕も、学会って、日本中の叡智が集まったすごいところだという幻想を持っていたのですが、どうやら、必ずしも、皆が、世界の最先端とか、人に役立つ技術の開発を目指しているわけではないのです。困ったことに、予算をとったから一応成果を発表しないといけない人とか、卒業のために論文を書く人、生活のために、など、研究を続けるインセンティブは、いろいろです。
「世の中で必要とされているものを地道に探して、もしよいアイデアがでてきたらみんなに共有してもらう。」 確かに理想論なのですが、こういう気持ちを常に持ち続けていたいものです。
・プログラミングの量と研究成果が直結しない。これは、よく体感することです。頑張って書いたコードも、結局使わないことはよくありました。「最小の努力で最大限の成果」、なんて例ができるといいのだけれど…。
・「締め切りまで3ヶ月。時間がな~い!」 成果を出してちゃんと論文をまとめようとすると、3ヶ月ってあっという間です。いつも締め切りぎりぎりになってテンパってしまうので、この感覚を身に着けないと。今まで一番余裕があったのは、博士論文を締め切り1日前に提出できたことくらいです(涙)1年に5本論文を書くのが目標なんだけれど、達成できていないなぁ。
・試行錯誤して性能を試すようなプログラムは人目に触れることのないものだけど、そういう開発は楽しい。けれど、一般の人が使えるように、バグをとったり使いやすくする開発は、辛い。 世の中、日銭を稼ぐのに必要なプログラムって、後者なんです。 でも、研究していると、前者に偏らざるを得なくて、論文としてはかけるけれど、実際に一般の人が使えるものに仕上がっていない(そういう研究って、たくさんあります。プログラムを公開しているけれども、使いにくいものとかね)。 でも、僕は、ちゃんと使えるものを作りたい。でも、それは時間もかかるし、ちゃんとビジネスまで持っていかないと続けられないから大変。夢と現実のジレンマがあります。昔は、両方を追い求めて開発ばかりしていて、できたプログラムを元に論文を書いていたのですが、そういうものだと、結局、論文には、実装の詳細までは書ききれないし、その上、作ったものが持つglobal impactは何かよくわからない論文しか書けていなかったなぁと、反省しています。論文が落とされても、大きく見直すのではなく、実装の細かいところとか局所的なところに目がいって、大きな成果を残そうとあせって泥沼に陥っていました…(遠い目) でも、細かいところは大事です。そういう小さな試行錯誤による裏づけがあって初めて、本当に重要な部分について言及できることがあります。研究で論文を引用するのと似てますね。違いは、全部の仕事を自分がやっているから、細かいところに引きずられやすいということ。そこに気付くのに時間がかかりました。
論文が通っても、使ってもらえないと意味がないです。世の中に貢献した感触が得られないというのが第一。人から評価してもらえることは、社会で生きていく上で、必要なことだと思います。Top conferenceに論文が通ると、それだけでよく引用されるのものですが、かといって論文を通すことそのものが目的になってはいけない。ただ、発表の場が、共通の目的を持っていなかったり、意欲の低いコミュニティになってしまうと、知の向上を図ることもできず、辛いものになってしまいます。いい論文であっても、そういう場での発表だと、まったく引用されていない、なんてこともあります。
研究を続けるからにはいい仕事をしたいです。でも、自分が時間を費やした成果が埋没してしまわないためには、きちんと戦略を練る必要があります。ここ数年、ビジネス関連の書籍を読むことが多いのですが、それというのも、研究も、企業のビジネスと多分に重なるところがあるからなんです。コンピュータの能力って、まだまだ引き出されていないところがたくさんあります。人件費以外の予算もそれほど必要としないので、少ない費用で大きな成果を残せる可能性を多分に秘めたものなんですよね。ただ、人の能力と時間は限られている。そういう制約がある中で、限られた資本(予算)から、できるだけ大きな成果を挙げることが目的という面で、研究とビジネスは同じです。
映画とかアニメでは、パソコンを使いこなすキャラクターってよく出てきますよね。コンピュータの計算力としてはそういう作品に出てくるようなことは大体できるようになっているのだけれど、まだ、人間はそこまでコンピュータを使いこなせないし、そのためのアプリケーションも発展途上です。そのギャップを埋める仕事ができればいいなと、常に思っています。これは、僕の小さいときからの憧れ。まさか、自分が研究の道に入るとは思ってもいなかったですが。
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